日本大学藝術学部 OB・OGインタビュー vol.2 文芸学科:新川博さん

日本大学藝術学部 OB・OGインタビュー 新川博さん

サンエイホームの日本大学芸術学部OB・OGインタビュー企画! 2人目は在学中にプロデビューし、25歳から松任谷由実さんのツアーメンバーとして活躍、数々の名曲をアレンジしている新川博さんです。

───本日はどうぞよろしくお願い致します。

新川:どうぞよろしくお願い致します。久し振りだね。


───お久し振りです!今、所沢の不動産会社でお仕事していまして、所沢の日本大学芸術学部の皆様のお部屋探しのお手伝いとかしているんです。

新川:へぇ、そうなんだ。僕の頃は所沢には校舎がなかったなぁ。最近出来たの?


───(!動揺)そ、そうなんです。それで日大芸術学部の卒業生の方にインタビューしていまして…

新川:そっかぁ。僕が大学に入ったのは、昭和48年とかだったからねぇ…。あの頃はまだ江古田にしか校舎がなかったよ。


───学校に通うためにお部屋探しとかされましたか?

新川:いやぁ、僕の実家は都内だったから実家から通ってたね。でも、同級生とかは部屋探しに苦労していたよ。
  その時代って、一人暮らし用のアパートって今みたいにたくさんあった訳じゃなくてね。あっても2DKとかのアパートで。
  僕らの時代は下宿先を探すって感じだったね。それで学校で仲良くなったらルームシェアして借りて暮らして…っていう流れが
  多かったんじゃないかな。


───なるほど…、地方から出てくる学生は部屋が少なくて大変だったのですね。

新川:そうだね。先輩の家に居候する、みたいな人も多かったかなぁ。


───大学生活はいかがでしたか?

新川:僕ね、大学行くつもりなかったの。17歳の時から作曲家の村井邦彦さんに弟子入りして、音楽出版社のアルファミュージックで
   バイトしてたんだ。このまま働きたいって思ったけど、親が「大学だけは行け」っていうんで大学入ったの。
   学費も親が出してくれてね。僕は音楽学科じゃなくて、文芸学科だったんだよね。


───数々のアーティストのプロデュースやアレンジをされているので、てっきり音楽学科かと思っていました…!当時の大学はどんな感じだったのですか?

新川:江古田校舎はとにかく狭かったね。校庭がなくて、教室が全部スタジオみたいだったな。
   あのスタジオの独特の感じ分かるでしょ?(※防音の重い二重扉で仕切られている空間)


───はい、分かります。その後、20歳でデビューされるわけですが…

新川:そうそう。僕ね、学校には19歳で1年遅れで入学して21歳で辞めちゃったの。
  20歳でハイファイセット(※1)のツアーメンバーとしてデビューしたんだけど、あのバンドは年間180本くらいライブやるのね。
  だから、学校行く暇がなくなっちゃって、学生課に行ってね、「すみません、こういうバンドでデビューする事になって、学費も
  もったいないので辞めます」って言いに行ったら「新川くん、おめでとう~」なんて喜ばれちゃってね(笑)
  それからはずっと音楽の仕事していますね。


───そういえば中学時代はあのギタリストcharさんとバンドを組まれていたのですよね。

新川:そうなんだよね。charとは小学校・中学校が一緒だったかな。で、僕は5歳からクラシックピアノを続けていたけど、その当時は
  「習わされている」って感じでそんなに好きじゃなくって。
  charと出会って、バンドやろう!って話になった時に、charがギターやるって言うから、「じゃあ、俺はベース」って感じでベース
  だったんだよ。


───え!?キーボードではなく、ベースですか?

新川:うん。その頃はギター、ベース、ドラムの3ピースバンドが普通だったし、「キーボードって、だせ~」とか思っててね(笑)


───でも、大学ではキーボードの練習をされていたんでしょうか?

新川:大学では、キーボードの練習というより、ギターも一応触れたから、ひたすらコード譜を作ってたよ(笑)
  当時ね、ピアノのコード譜って全然なくて。当時あったコード譜の本とか結構デタラメでね(笑)自分でギターのコードを抑えて、
  「ああ、Cのコードはこうね」みたいな感じで自作してましたよ。


───ちなみにキーボードは練習はされなかったんですか?

新川:当時は今みたいにエレクトーンがなかったの。だから、自宅のアップライトピアノとか、学校のグランドピアノ、ハモンドとかで
  練習しててね。あ、体育館に忍び込んで練習したりしたなぁ(笑)これはもう時効だよね。


───そ、そうなのですね。プロデビューしてからは、プレイヤーとしての活動と同時にアレンジャーとしての地位を築いていくわけですが、エピソードなどありましたら教えて頂けますか?

新川:そうね、編曲の仕事って、まだタイトルも決まって無くて仮歌の状態で渡されるから、曲のタイトルが全部「M1」とか「M2」とかでね。
  で、基本アレンジャーは歌う本人とは会わないから、後でテレビで聴いて、「あ!これ僕がやったやつだ」って知ることが多かったなぁ。
  いわゆる『歌謡曲』が流行ってた頃が一番忙しくてね。1日最低2曲アレンジ、忙しい人は午前中にCMのアレンジして、昼から深夜まで
  スタジオに篭って4曲アレンジ、とか。


───それって、ツアーに出ながらもされていたのですか?

新川:そうだよ。当時FAXもなかったから、まず地方のホテルで編曲したら、羽田空港にパート譜に分けてくれる写譜屋さんが
  待ち構えてるの(笑)
  で、渡したら写譜屋さんは即会社に戻って、ドラムとかギター、とかパートごとの譜面に起こして、僕はその間に家に帰って
  シャワーでも浴びていて、スタジオに行くともう朝の譜面がしっかりパート譜になっててね。
  そんなのが当たり前のアナログの時代でしたね。
  地方に行っていない時は、朝5時とか6時に自宅に写譜屋さんが譜面取りに来るの。でも出来てなくて、
  「あー、来ちゃったー」とか思いながら徹夜でアレンジするわけ。で、渡したらまた僕がスタジオに行くときはパート譜が完成してたね。


───最後に後輩へのメッセージをお願い致します!

新川:大学っていうのは、今に繋がる仲間が集まる時というのかな。業界の始めの一歩、というかね。
  朝までファミレスで音楽論や人生論を語れるような仲間が出来るじゃない。
  この業界、個人プレーはダメだから、いい仲間と出会えるようにしてほしいね。

  今はスマホがあったりで、文字だけのコミュニケーションが増えているけど、スマホで話すのと対面で話すのは違うから、
  大事なことは対面で直接言えるようになってほしいね。いい事も悪い事も、直接の方がやっぱりいいと思う。

  僕は、駆け出しの頃に松原正樹さん、松任谷正隆さん、青山純さん、伊藤広規さんなんかと出会えて、まさか数十年後も
  今一緒に仕事しているなんて考えてもいなかったけど…そういう仲間が出来る場所だから、大事にして欲しいよね。


───なるほどです!本日は貴重なお話をありがとうございました!

新川:こちらこそありがとうございました。

新川博

【新川博 プロフィール】

1955年、東京生まれ。
5歳からクラシックピアノを始め、11歳の頃には同級生だったCharとバンドを結成する。
17歳の頃に村井邦彦に師事し音楽出版社の手伝いを始める。
20歳でハイ・ファイ・セットのバックバンドとしてプロデビュー。
25歳には松任谷由実、ステージの音楽監督としてツアーに参加する。
28歳よりレコーディングアレンジャーとしての活動を本格的にスタートする。

2000年にはビクターエンタテインメント内にAOR Jazzレーベル「aosis records」を設立し、プロデューサーとして活動する傍ら自身のソロアルバムも3枚リリースしている。

今までアレンジしたアーティストは、少年隊、光GENJI、SMAP、KinKi Kidsなどのジャニーズアーティスト、中山美穂、小泉今日子、本田美奈子、原田知世、早見優、酒井法子などのアイドル、和田アキ子、中村雅俊、杉山清貴などのベテランや明石家さんま、とんねるずまで幅広い。

また、ハイファイセット、オメガトライブ、ブレッド&バターなどのプロデュースも手がけた。

2009年、濱田尚哉、六川正彦とトリオ・バンド(Sinkeys)を結成。
現在も精力的にライブ活動を行っている。

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★INFORMATION

3月31日(金) Shinkeys LIVE
cherokee LIVE TAVERN
19:00開場 20:00開演

<会場>
東京都目黒区鷹番2-19 城南鷹番ビルB1
03-5708-5780
新川博key 六川正彦bass 濱田尚哉drums
GUEST: 鎌田一夫sax

【インタビュアー プロフィール】

12歳からドラムを10年間ヤマハ音楽教室で習い、高校1年で吹奏楽部に入部、打楽器を学ぶ。
音楽の楽しさを知り、音響技術の専門学校に進学。1年の後期で高校時代から通っていた「高円寺JIROKICHI」でPAアシスタントになり、その後17年間スタッフとして在籍。学校へは殆ど行かず、週4~5日は現場でPAの勉強をする。
現在はJIROKICHIライブ音源などの音楽配信を続ける傍ら、「孤独のグルメ」、「渋さ知らズ」などの音楽配信も手伝っている。

サンエイホームでは物件入力部隊として日々お部屋情報入力中。